contents

繋がりは、点と点が繋がって線になって生まれる。
場所も空間も時間も超えて、持つことができるもの。
人は手を伸ばせば、どんなものとだって繋がることができます。

ある日、伊那谷にある中川村へ、イエルカ・ワインさんと奥さんの悦子さんを訪ねたところ、今中川村でとても精力的に活動をしている若い友人たちを紹介してくれました。悦子さんが作ってくれたお昼ご飯を一緒に食べながら話す彼らの会話のやり取りが、中川村の風習がなんとなく表われていて面白かったので、急遽座談会をやらせてもらうことに・・・。

この座談会で感じたのは、「山と人の繋がりは、人と人をも繋ぎ、それはどんどん未来へ受け継がれている。」ということ。そこに血縁関係や師弟関係はなくとも、山と関わり、村と関わることで自然と人の繋がりが生まれ、また受け継がれていく。それが当たり前のように存在しているのが、彼らが暮らす中川村なのかも知れません。

この座談会の参加者は、
イエルカストーブを作るチェコ出身のイエルカ・ワインさん(以下、イエルカ)、
ヤギの毛で絨毯を作る奥さんの悦子・ワインさん(以下、悦子)、
自然溢れるキャンプ場を営んでいる久保田 雄大さん(以下、雄大)、
標高1500mの場所でぶどうを栽培する與語 篤志さん(以下、與語)たち4人の中川村民と、
原村在住でアトリエDEF代表兼LinkLinkディレクターの大井 明弘(以下、大井)です。

大きな共通事項は、「山」と「村」。
会話の中で、過去や未来に目を向けて、これからのことも話しました。
まずは、第一部。ぜひ、ご覧ください。

イエルカさん、ナナオサカキと出会い、日本へ。

イエルカ  わたし、すごい尊敬している日本人がいる。彼が好きで、わたし日本に来た。その人はナナオサカキ、詩人。もう亡くなってしまったけど、素晴らしい人ね。

雄大  うん。

イエルカ  わたし、昔ニューメキシコのコミューンに住んでた、そこは3500m標高の山。私がそのコミューンに入った時に、面白い日本人が山のもっと上で、熊の住んでた洞穴で住んでるって聞いた。

雄大  熊の洞穴!(笑)

イエルカ  彼は、たまにこのコミューンに降りてきて、食べ物とか手に入れて、私たちと一緒に夜酒を飲んで、日本の民謡を歌ったりしてた。それがナナオだった。そうして友達になって、彼が日本に帰った後「日本に来ないか?」って手紙が来た。それでちょっと見に行こうと思って日本に来たのが始まり。

イエルカ  ナナオが昔言った。「野生の山がなくなる国では、そこに住むの人たちの中の野生の部分も死んじゃう」。彼は戦争が終わったあと、ずっと日本中を歩いて詩を書いた。知床一坪運動を始めた人でもあります。わたし、彼の本を訳してチェコでも何度か出版した。日本では、あまりよく知られてないけれど、彼はアメリカでは有名だった。彼は昔わたしの家に、友人であり詩人のアレン・ギンズバーグを連れて遊びに来てた。二人は、原発反対とか自然を守るとか、すごく強く思ってた。

イエルカ  その後は、ボブ・・・ボブさんは、ナナオサカキの弟子で、シンガー。

與語  「大鹿村 ボブ」で検索するとYouTubeにたくさん出てくるよ(笑)

イエルカ  ボブとナナオとアレン・ギンズバーグを連れて、プラハに行った。わたしが連れて行ってね。大統領だったハーベルにも会って、そして脱原発派の大きいイベントやったりして。あ、この写真は、ナナオ、イエルカ、アレン・ギンズバーグ!

大井  かっくいい!

イエルカ  ここ(本の間)に写真あったね!

與語  これ飾っといた方がいいんじゃない?

イエルカ  アレンも亡くなった、ナナオも亡くなった、わたしまだいるけれど・・・これは大鹿村の山にみんなで遊びに行った写真。ナナオは自然の大事さを知ってて、大きな会社の事業は自然環境に悪いとか早く気づいた人。それが彼の詩に出てるの、もう30年前。それが、素晴らしいったら。彼は山歩くのが、大好きだった。

悦子  ナナオがうちに一ヶ月とか一ヶ月半逗留するのね、奥の間一つに。テーブルにはね、本があって辞書があって、そしてバックパックはそっちの端にあって。山靴にはちゃんと新聞紙が入ってね。いつもちゃんと整えてあって、もうピッチリしてるの!ああいう人は、あまりいないのよね。

イエルカ  「犬もあるけば」はまだ手に入ると思うよ。ここには載ってないけれど、彼の「かきの歌」とか素晴らしくて、この長野県を感じるね。

悦子  伊那谷をね。「かきの歌」はいいよね。

雄大  僕もイエルカさんに出会う前から好きだったよ。ナナオの詩。

悦子  今読んでも驚くわよね。あんな何十年も前に今起こってることを暗示してたっていうのをね。

イエルカさんと悦子さんが感じた地域社会の大切さ。

イエルカ  わたし40歳、悦子38歳の時に、隣の大鹿村に入った。絶対子供は、山の中で育てたい。できるだけ自分で食べ物作りたい。そういう生活やりたい。そう思って大鹿村に来て、バッチリだったよ。麦植えて、自分でパン焼いて、そうやってこういう自分のスタイル生まれた。

大井  そうそう、自分でパンを焼きたくて、それで・・・

悦子  そうそう(笑)

大井  それで、ストーブを作ったんだよね。

イエルカ  わたしのお父さん建築家ね、そしてわたしは舞台建築を勉強したね。形を考えて作って、生み出すことはすごい性に合ってたね。大鹿村に来てから2年間くらい研究した。薪ストーブはヨーロッパにも多いけれど、昔は溶接なんかなかったね。だから、全部レンガか鋳物で合わせたものだった。だから、イエルカの薪ストーブはここ日本で生まれた。

雄大  あぁ、そうか。

イエルカ  私たち入った場所は、大鹿村の一番奥の赤石山の麓にある釡沢地区。あそこに入るには約5キロくらい森を歩くね。わたしたちが30年前来て驚いたのは、ああいう離れた地区でも地域社会がしっかりしてたの。おじいさんたちおばあさんたちもまだ生きてた時だったね。その人たちの「山と一緒に生きる」の生き方はすごかった・・・

悦子  ほんと、学びだったね。

イエルカ  大きい学びだったね。山の斜面にある畑を耕運機も使わず、全部くわで耕して。

雄大  斜面の畑を?すごい。

イエルカ  そうそう。おじいさんたちは、いつも教えてくれた。下から上に耕すのよ。わたしビックリしたね、チェコでこんな斜面で畑作れない。けれど、味は美味しい。畑は南斜面で、多分大昔から人が住んでたね。ほんと、あの人たちからたくさん教えてもらった。

悦子  蕎麦屋さんの友人がいるんだけども、彼がね、うちによく遊びきてたのね。そして、ここにそば粉はある?っていうから、そばを作ってる何人かのおじいさんたちを紹介したのね。そのそばの実を朝、自分の手で引いて作ったそばは特別な味だったって言うの。それを聞いたおじいさんたちも喜んで、張り切って作って・・・この関係が何年も続たわね。

大井  うんうん。

イエルカ  あの村でね、いろんなお話聞いたね。わたし、すごい好きな話があるね。わたしたちの住んでいた部落から、また更に山に入った奥にある河原の端っこに、昔は銅山ありました。

與語  今もある?

雄大  跡はあるね。

イエルカ  その銅山で働くために、突然100人くらい人が来た。私たちの家から、更に奥の細い道を8キロ歩くね。

悦子  とても険しい道ね。

イエルカ  わたしたち住んでた釡沢地区の人たち、木の箱を作って8キロ歩いて、銅山で働く人たちの「うんこ」をもらって、で、また8キロ帰りに歩く(笑)。畑の肥やしのためにね。向こうの人、食べ物良かったから結構肥えてたね(笑)。

悦子  お金があったからね。

イエルカ  だから、いい「うんこ」をもらったのね(笑)。けど、16キロ歩くね、「うんこ」の一箱のために。今はもう想像できないね!そこは、おじいさんもおばあさんも90歳で、畑やりながら長唄歌ったりだとか、そういう世界良かったね!今はだいぶ無くなってしまったけどね。

イエルカ  わたしにとってすごい大事なのが、地域社会。あの時は、手を繋がないと生き残れない。だから、私たち大鹿村に入った時はビックリした。おじいさんおばあさんは私たちが来ると、ネギ食べませんか?とか話しかけてくれた。はじめは、なんか悪いなぁ、どうしたらいいんだろうとか思ってたけど。

悦子  毎日毎日、みんながね、ちょっと来てねぇ野菜をわけてくれたのね。

イエルカ  わたしわかった。村では、たくさん野菜できたら、それを配る。その野菜を、また他の人と分け合う。こういう生き方ね、好き嫌いもあったけれども、それでも頑張って一緒に山の生活してた。わたし、これからの田舎暮らしは、またこの地域社会の力、また作らなきゃいけないと思うね。手を繋げば、なんとかこの辺を自然を守れると思うね。今若い人たち、山に住みはじめてて、その繋がりを少しずつ勉強してるね。

雄大さんとイエルカさんの出会い

雄大  イエルカさんは、まぁ僕にとっては隣のおじさん(笑)

一同  (笑)

悦子  リニア建設の説明会では、よく顔を合わせてたんだけどね。

與語  雄大さん、生まれはどこなの?

雄大  僕は飯田です。

雄大  イエルカさんたちとこんなに仲良くなったのは、この谷に住んでるのがイエルカさんと悦子さんだけで、僕たちはその上流で自然や森に人を集めて森を良くしていくっていう活動を運営しているキャンプ場でしているので、同じような思いの一つの共同体みたいになれた。

大井  運営しているキャンプ場にはどういうところなの?

雄大  この上流に一つ村があったんですけど、55年前に災害で全村移住してて、今いる森のほとんどが村有林なんですよ。

與語  三六災害っていうのが昭和36年に起こって、大鹿村でも土砂崩れでたくさんの人が亡くなった。

雄大  イエルカさんがさっき言ったような時代が、ここらへんの山にはずっとあったんですけど、そういうものが亡くなったきっかけは、高度経済成長と同時に水害が起きたこと。それで、畑が使えなくなったと同時に、村の仕事が全て土建業に切り替わったんですね。要は、食べられなくなった時にダム建設とか護岸工事とかがばーってできたから、みんなそこで働いた。昔から自給自足の暮らしでしか生活できなかったからこそ、すごく結があったと思うんですけど、三六災害を機にだんだんそういう生活に変わっていった。

悦子  雄大くんって、前にヤマハ発動機に勤めてて、何年かアフリカにいたのよね。

大井  またなんでアフリカにいたの?

雄大  アフリカで働いてみたかったんです。入った会社が、たまたますごくアフリカに強い会社だったんです(笑)

與語  ざっくりしてるね(笑)

雄大  僕若い頃から、すごく環境意識の高い子だったんですよ。親は全然ヒッピーじゃないんですけど。ぼくらの時代って、バブルが終わってから育った。同時多発テロの9.11も高校2年生の時に起きて。

大井  9.11が高校2年の時なんだねぇ。

雄大  はい。世界はこのまま進んではダメだから、何か別の事しなきゃいけないと思って旅に出たんです。旅先では、いろんな人が自分の場所や地域を守ろうと頑張ってるってのが、とても素敵に目に映って、アボリジニの人たちもだし、ミャンマーの山奥の人たちも。それからチベットやパレスチナの人たちは、戦って居場所を無くなっちゃった人たち。NGOとかユニセフと一緒に働いてた時も、アフリカの人たちはすごくて。すごく地域のためにがんばる若者っていうのは、僕の理想で「マイランド、マイピープル」っていう感覚がすごいなぁと思ったんです。でも実は、それは僕の地元にもあった。僕は、そういうものを持って伊那谷っていうところに生まれたってことは、すごくラッキーなことなんじゃないかと思ったんです。今回の人生ってそういう運命・・・

大井  今回の人生(笑)

雄大  (笑)わりとそういう先住民的な意識を持って生まれたから、ちょっとそれを追求してみようっていう気持ちになりました。それには、日本のこともわかんないといけないと思って、一度日系企業で働いてみようってことで就活してヤマハが僕を拾ってくれたんです(笑)で、ヤマハではアフリカの仕事だったんです。

大井  うん。

雄大  でもやっぱり日本に帰って来て、地元のことをやりたいっていう思いが、20代ずっとあったから、30歳でここに帰ってきたんです。

大井  今そこのキャンプ場を何のために運営されているの?

雄大  一番やりたかったことはイエルカさんと一緒で、自分の家族や子供ができた時に、私の生きる大地、森や人々がここにあるっていう感覚が持てる場所に住みたかった。人間らしい営みがある地域の中で、自分やまわりの世界を信じながら、子どもと育ちたかった。それが、僕の地元の飯田辺はもう無くなっちゃって来たんですよね。

悦子  街場だからね。

雄大  僕んちはね、飯田の駅裏で800年くらい続いてるんですけど、全部区画整理と高速道路、あと水害でおじいちゃんは3回立ち退きしているんですよ。もうぐしゃぐしゃになったので。

イエルカ  大変だー。これからリニアを作ろうとしてるから、またぐちゃぐちゃになるね。

雄大  それで、育った飯田に愛着はあるけど、ふるさと伊那谷の中で、もっと自然に溢れた土地を探していたら、出会ったのがいまのところ。中川村は、河岸段丘の棚田にふたつのアルプスが映えて本当に美しい。景色は前から大好きだったけど、人のあったかさ、移住している人が活き活きしているところ、それと村の考え方も面白そうだと思った。自分のなかに、人の心と自然を繋げる仕事がしたいと思いがありました。

大井  うん。

雄大  それから、この日本の豊かな森を活かした暮らしをしてみたいという気持ちもあって。アフリカで起こる資源や紛争など色んな問題は、根本的には先進国の資源確保やグローバル企業の利益から生じていることを痛感していたので。帰ってきて、最初の3年は山岳ガイドをやりながら、ふるさとの山々をとにかく歩いた。それから林業に入ったりとか、野外保育のスタッフで働いたりしてたんです。それでだいぶ、伊那谷の自然について、子どもの頃の感覚に加え、知識もついてきた。前の村長に「僕、ここでこういうことやりたいと思ってるんです」ってお話をしてたら、ちょうどここのキャンプ場が空いてると教えてもらって。

イエルカ  中川村はほんと面白いこといろいろやってるよ。例えば去年、東京から生物学を学んでいる生徒を20人くらい呼んで、村の3人の猟師さんたちと一緒に獣一頭を解体して勉強したりとかね。この山と一緒に生きるを学ぶ、昔はそうだったね。

雄大  僕らも一年を通して温泉と夏はキャンプ場、冬は森の整備や小屋を作ったりなんかしてますけど、今はまずはみんなが食べていけるように本業をしっかりやっていこうとしているところですね。

〔この続きは、また近日公開します!お楽しみに。〕

Share On