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いぶし銀の独特な表情を持つ、群馬県藤岡市の『藤岡瓦』。
藤岡市は、瓦造りに最適な粘土が取れることもあり、瓦の産地としてとても栄えた町でした。
かつては町中でモクモクと黒い煙が上がり、いたる所で見られた歴史ある瓦作り専用の窯『だるま窯』。
今では、機械化の波に押され、残っただるま窯は藤岡の町に2基だけとなりました。

そのだるま窯を使い、今でも伝統的な製法で瓦を作り続けている共和建材の代表 五十嵐清さん。
日本で唯一、1人手作業で瓦造りの全ての工程を行える凄腕の瓦職人です。

前編では、だるま窯の歴史と瓦造りの製法について、お伝えしました。
さて、後編では、五十嵐さんが瓦職人になった経緯や「藤岡瓦」の性能について、お送りします。
また、近年の新たな挑戦やこれからのことも教えていただきました。

藤岡瓦の歴史と町の景色の変化

陰干しをし、クリーム色に乾燥した瓦は、天日でさらに乾燥させます。
この写真は、昭和33年の天日干しの様子です。
今でも同じように、太陽の向きに合わせて、瓦の向きを動かし、均一に乾くように手間をかけています。
写真のように瓦の数が多い時は、一日瓦の向きを動かして終わってしまう日もあるそうです。
乾燥した瓦が約1000枚ほど溜まったら、だるま窯に詰めて焼き上げます。
多くの手間暇をかけて、やっと完成する藤岡瓦ですが、五十嵐さんの経験や勘による調整や判断が、様々な工程で幾度となく必要とされていました。
こうして出来上がる瓦一枚一枚には、五十嵐さんの積み重ねてきた全てが詰まっています。

五十嵐さんは、昭和初期から続く、共和建材の3代目の瓦職人です。
高校を卒業後、家業である瓦屋を当たり前のように継ぎました。
当時、藤岡市にはだるま窯を持つ瓦屋が60軒以上ありましたが、今ではなんと五十嵐さんの瓦屋一軒のみだそうで、他に瓦に携わるのは鬼瓦を掘る鬼師の方と2人だけなんだそうです。

五十嵐さん:
私が社会に出る頃は、この辺りでは、みんなこの世界に入るのが普通だったんですよ。
ちょうど、2代目3代目が多かったよね。
うちの五十嵐ってのは、元々は新潟の出なんですよ。
大正時代、祖父が冬に仕事がないからって関東に出稼ぎに行き、埼玉の越谷にあった瓦屋に就職したのがキッカケで、その窯元の娘だった祖母と結婚したんです。
だから、祖母も瓦作りが上手だった。
その後いろいろな瓦屋を転々として、最後にたどり着いたのがここ藤岡市だったの。

この土地の大地主が瓦屋で、ここにあった第二工場を任されたのが昭和元年ごろだったかな。
そこから、工場を引き継いで独立して、昭和24年に今の会社になったの。
その当時はね、だるま窯も4基くらいあった。
4基あると、1基は空け、1基は積み、1基は焚いて、って1日ずつずらして作業できるわけ。
ぐるぐる回さないといけないくらい、瓦の需要があったんだよ。
社員も20人ぐらいいたんだ。
うちの周辺も、同じようにいぶし瓦を作ってる瓦屋ばっかりだったから、朝起きるとね、藤岡の街はいつも真っ黒だったんだよ。
その様子がね、藤岡音頭っていう歌にもちゃんと入っているんだよね。

工房の建物にあった、多くの金型や木型は、近所の瓦屋が辞めるたびに、使えるものを引き取ってきたそうです。
すべて大きさや形が少しずつ違い、その種類は200を超えます。

五十嵐さん:
大昔は、この木型をつくる専門の型屋さんがいたんだけど、今はもういない。
瓦屋も、3年前までは、まだ近所に2件あったの。
なんで辞めたかって言うと、それまで瓦づくりは、みんな分業だったんですよ。
こういう焼き物は、道具も含めて全て専門に作る業者がいて、その業者が先に辞めちゃうと、もう瓦屋続けられなくなるんですよね。
それに、機械化が進むとこういう手作業は、みんなほとんどやらなくなるでしょ?
私の場合は、昔からあまり分業せずにうちで作ってたから、今も続けられるんですよね。
使う道具も、最終的には自分で作るというか、もらって来たものを調整したりして使い続けてるんです。
今は一人で、そうだね、100種類ぐらいの瓦は作ることができるんですよ。

五十嵐さんの工房に4基あっただるま窯も、今使っているのは2基だけです。
それらのだるま窯は、今から40年ほど前、専門の窯師である伊藤倉次さんと一緒に、五十嵐さんが助手となって製作したものです。
窯の素材には、瓦と同じ土と藁でできており、構造体の骨には瓦が使われています。
いつでも手に入る自然素材でできているので、もし不具合が出ても、五十嵐さん自ら修理して使い続けています。
工房内にある使っていないだるま窯は、その構造がわかるくらい、土が空いてしまっていました。
だるま窯も火を焚き、煙を出し続けないと、こうして使えなくなってしまうんだそうです。
五十嵐さんは、だるま窯を生き物のように言います。

五十嵐さん:
骨が瓦で、土と藁の土壁という肉がくっついてる。
煙を吸って、窯も生きてる。
そして、瓦も生きてる。
だから、だるま窯も使い続けないと、ダメになってしまうんだよ。

「瓦は生きてる」藤岡瓦のすごい性能

五十嵐さんが、工房内にある水槽で、いぶし瓦の面白い実験を見せてくれました。


五十嵐さんが作る藤岡瓦とガス窯で大量に生産しているいぶし瓦。
それぞれを水槽の水に浸して、上げてみます。

藤岡瓦の方は、表面についた水が瞬く間に乾いていくように見えます。

もう一方のいぶし瓦は、水が流れ落ちると、瓦の表面には水の跡がくっきりと残ったままでした。

五十嵐さん:
実はこれ、乾いてるんじゃなくて、瓦が水を吸ってるんですよ。
屋根の瓦が水吸っちゃったら、漏るじゃないかって思うでしょ。
裏面を見るとこっちも吸ってます。
藤岡瓦のような燻しの焼き物はね、保水をするんですよ。
この瓦、粒子は荒いんだけど、保水をして、飽和状態になれば水もちゃんと流す。
こっちの大量生産したいぶし瓦は、逆に吸水率が低いことを売りにしてるものだから、性能が真逆なんだよね。
藤岡瓦の場合、夏は保水した水が蒸発する時に瓦から気化熱を奪うことで、家の中がうんと涼しくなる。
保水することで熱も溜まりにくくなるから、真夏でもだいたい表面温度は50度くらいになるかな?
他の瓦は50度以上となり、もっと耐熱してしまうから、屋根裏に換気装置が必要となった。
それに比べ、藤岡瓦は裏面の温度も表面に比べて同じかあるいはマイナスになるから、小屋裏に熱が籠りにくい利点もあるんですよ。

五十嵐さんの事務所には、福田平八郎という日本画の画家が1953年に描いた『雨』という作品のポスターが飾ってあります。
その絵に描いてあるのは、屋根の一部の瓦だけ。
でも、その瓦の表面の質感が、まるでいぶし瓦のようなねずみ色とムラのある表情で表現されています。
絵をよく見ると、ポツポツと降り始めた雨のシミが瓦に描いてあります。
それは、瓦が雨を吸い込む決定的な瞬間であり、墨の濃淡でその表現されています。
五十嵐さんは、数年前にこの作品を東京の美術館へ見に行ったそうです。
本物は、まるで降り始めの土の匂いがしそうなくらい、とても素敵な作品だったそうです。

瓦への新しい挑戦と技術継承への思い

最近では、伝統的な瓦作りの経験を活かし、工芸美術と呼べるような新たな分野に挑戦している五十嵐さん。
国内、海外の芸術家や書道家が工房を訪れたことをキッカケに、コラボ作品を作って展覧会に出展することが増えてきたそうです。
瓦と聞くと、屋根ばかり思い浮かべてしまいますが、実は手に触れられる所にも、瓦はたくさん使われていました。

五十嵐さん:
みなさん、屋根瓦ばっかり言うけど、最近はこの敷き瓦っていうのが、お店などに多いんですよ。
例えば、東京で言うと、東京駅、新宿、六本木、渋谷、西麻布、秋葉原・・・っていろんなところで見れるかな。
東京駅だと八重洲のグランルーフっていう商店街にできた日本食のお店の床とか、新宿のヒカリエでは壁の内装に使われてる。
あとね、ストーブ周りの壁とか床とかにも、よく瓦を敷きますね。
この300角の敷き瓦を出す型があるんですけど、普通はこの瓦を作るだけでしょ?
私は、これを使って、テーブルのように長い瓦を作ったりしてるわけ。
多少遊び心だとかないとさ、長く出したりはしないから、そういうことしてる私は、瓦業界ではかなり特異な存在で、最近ではみんな一目置いてくれてる。

五十嵐さん:
最近だと、中国人の篆刻家である馬景泉先生と一緒に作品を作ったりなんかしてて。
大きな瓦の板を私が作って、先生が漢詩を刻んで、それをだるま窯で焼く。

これが、面白いんだよね。
この前は、東京の六本木の新国立美術館に、先生とコラボで作った瓦のテーブルとベンチを出展したのよ。
展示も屋外だったから、普通に座ってもらえるようにって。
テーブル中央の板には、先生の蘭亭序(書の神様 王羲之の書体)が入ってる。
展覧会行くと、普通は作品に触らないでくださいってあるけど、うちのはどんどん触って座って構いませんっていう風にして。
ところが展覧会期間中、台風が来たりして、晴れたの三日であと全部雨だった(笑)。

そう笑いながら、ちょうど取材日の前日にもらったという表彰の楯を見せてくれました。
その盾の中には、作品の写真も入っています。
「マーさん(先生の名前)が今度ここに来たら、これ持たせてあげよう。」
と嬉しそうに話す五十嵐さん。
3月初旬には、東京都上野にある東京都美術館での展覧会にも、再びコラボで出展する予定だそうです。
屋根や内装といった建築の材料に止まらない、芸術としての瓦の可能性が広がっています。

五十嵐さんは、現在66歳。
瓦造りは体力勝負の仕事ですが、できる限り藤岡瓦を作り続けたいと話してくれました。
現在、五十嵐さんの工房には後継者はいませんが、この技術を誰かに継承できたらと考えているそうです。
「これだけの設備が揃ってるから、あとはやる気だけなんだけどね。」
瓦造りは、根気の必要な作業工程が何度もありますが、技術を極めるために自分と向き合い、経験の中で土や火、空気といった自然環境と向き合うことで、豊かな人間性を磨くことのできる仕事だと思います。
なにより、機械ではなく、自分の五感を頼りにしなくてはならないという、一筋縄ではいかない「面白さ」を秘めています。
五十嵐さんは、技術を学びにきてくれた人や工房を訪ねてきてくれた人には、その全てを丁寧に伝えています。

また、長野県小布施市や群馬県甘楽町など、瓦で栄えた地域による、新たなだるま窯の製作などにも協力しています。
そこで、だるま窯を使った伝統的な瓦作りを始めたいと思ってくれる若者が一人でも増えたらと、五十嵐さんは言います。
だるま窯を作ったら、どうかその煙を絶やさずに生かし続けて欲しい。
そうして、また次の世代へ繋がっていくことを願っています。

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