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福島県いわき市。海岸部は東日本大震災の時に津波の被害を受けた地域です。

海から少し離れた場所を案内されました。 すっかり田んぼには稲が実り、畑には季節の野菜がたわわに実をつけていました。

その中にきれいな花が咲く畑がありました。綿の栽培をしている畑でした。

ここで育てているのは、備中茶綿といい茶色い色をした綿です。
皆さんがよく目にするのは白い綿。
こちらではこの備中茶綿と福島に昔から伝わる会津和綿と呼ばれる白い綿を栽培していました。

 

吉田さん
この茶色い綿を育て始めたのはちょうど震災の後。
自分たちにも何かできないかと思い、地域の人にも協力してもらい茶綿の栽培を始めました。

そうお話くださったのは、いわきおてんとSUN企業組合の代表理事である吉田さんです。
吉田さんはいわき市小名浜地区の復興支援ボランティアセンターのセンター長、NPO法人ザ・ピープルの理事長でもあります。

震災の前から「古着をもやさない」をテーマにチャリティーショップやリサイクルショップを始めたという吉田さん。
「古着をもやさない」という聞きなれないフレーズをもっと詳しく聞いてみました。

吉田さん
「古着をもやさない」と言うのは「古着を捨てない」ということです。
こちらの活動は先に記述のあったNPO法人ザ・ピープルとしてのものです。

みなさん、たくさんのお洋服をお持ちですよね。
しかし1年もすると似合わなくなったり、流行のものではないという理由で捨てられてしまう洋服がたくさんあります。
主婦の方はそんなにたくさんお洋服を買えるわけではないです。
でも皆さんお肉やお魚のトレー、牛乳パックなどをリサイクルに出しますね。
お肉やお魚のトレーなんて、白でも青でもどちらでもいい。特にこだわりも愛着もないでしょ。それなのにリサイクルに出します。
お洋服を買うときはそれを素敵だなと思って購入しているはずです。
それなのに、捨てられてしまう。リサイクルにも出さない。
これはおかしいのではないか?と思ったのです。

それに、いろいろな団体が古着を集めて発展途上国に送ることもしていますが、私はそれもおかしいと思ったのです。発展途上国に、私たちのお古やいらなくなったものを押し付けるような感じがして。
自分たちが使わなくなったモノも自分たちの手でどうにかしようと考えました。

それから古着を集めました。
まだ着られそうなお洋服はお店で売ることができるように、チャリティーショップを始めました。
同時にここは障害者の方々の働く場にもなりました。
中にはもう着られないなというものもあります。
それらはどうしようかと考えていたところ、知り合いのつてで古着を車の部品の一部にすることができると知りました。
お洋服を反毛(はんもう)と言って繊維の状態に戻すのです。
そしてそれが様々な過程を経て車のアームレストの部分などになっているのです。

私も今まではボロボロになってしまったものは、もう雑巾になって終わりだなと思っていたのですが、そのような状態のものでも他のモノに再生できると知り驚きました。

そんな活動をしていたので、震災が起きた時もすぐに動くことができたと吉田さんはおっしゃいます。

吉田さん
いわき市は津波の被害もありました。
震災の時には避難所にいる方が自らの手で好きなものを調理できるようなしくみの炊き出しをしていました。
その時に話をした市内の野菜農家さんたちが、津波の被害もあったし、放射能の事もあるから これ以上農家を続けても辛いだけ。やめようと思っていると言ったのです。
津波はもとより、放射能の被害が大きかったです。
実際にどれくらいの年月がたてば、またちゃんとした野菜を作り、消費者が買ってくれるのか。やはり口に入れるものは特にみんな敏感になり、そんなにすぐには元に戻らないのではないか。みんなが不安でした。
そんな時に思ったのです。
人が口に入れるものが買ってもらえないなら、口に入れないものを栽培すればいいのではないか。

そしてそれをきっかけに綿を栽培し始めました。
綿栽培の多くは NPO法人ザ・ピープルを中心に市民活動のような形で進められており 綿を育てるだけでなく製品にして世に出したいという想いから、いわきおてんとSUN企業組合を発足ししっかりとした事業としてのものづくりを行っています。タオル、手拭いなどを製品化してみると、茶綿の色がとても素敵に仕上がりました。

今では市内20カ所以上で栽培しています。
綿栽培であればなんでもいい訳ではなく、有機農法で栽培しています。
近年では遺伝子組み換え植物も多くなってきておりますが、そういったものでなく種を化成肥料や農薬、殺虫剤を使用せずに育てるということに意味があると思っています。

こちらでは自分たちで栽培する綿の他に、県内外の農家さんやボランティア、教育の取り組みの一環として取り入れてくれている学校で栽培した綿なども取り集め製品にしています。

綿は花を咲かせる時期も綿を収穫する時期もさまざま。
綿は落ちて土についてしまうと汚くなってしまうので、その前に人の手で摘み取ります。
時期も9月の終わりから1月くらいまでずっと収穫の時期です。
収穫の時期が長いと大変な反面、花を愛でながら収穫できる面白い植物です。

私が取材に伺った時期はまだ綿はできていませんでしたが、きれいな花が咲く畑を案内してくれながら吉田さんはお話してくれました。

綿の花はおくらの花のようにきれいな花でした。
花が枯れた後、硬い実のようなものが出来て、それがパーンと弾けて中から綿がでてくるとのことでした。

吉田さん
収穫の時期が長いとすごく手間がかかるのです。
でも手間がかかるということは悪いことばかりではありません。
人の手が必要ということは、たくさんの人に来てもらう必要があるということ。
同時に仲間が増えるということだと考えています。
また、県外からのボランティアを迎えることにより、福島の今を知ってもらうということに繋がると考えています。
単に農業をする、ものづくりをするということではなく、それ以上の可能性を広げていきたいと思っています。

吉田さんは辛いことも、苦しいこともプラスに変えていく様が私にはとてもまぶしかったです。

白い色の和綿ではなく、あえて茶綿を栽培しているという吉田さん。
この日吉田さんが着ていたTシャツも茶綿の茶色が素敵なTシャツでした。
しかし驚くことに、そのTシャツに使われている茶綿は5パーセントだといいます。
縦糸と横糸の織方で量が少なくても茶綿の色がでるそうです。

この茶綿でできた製品が日本中、いや世界中に広がり、茶綿をみたら福島とイメージしてもらえるようなモノにできたらいいと思っています。今はまだ製品は震災で始めたものというイメージが大きいけれど、震災の事とは関係なく単純に欲しいと思えるものづくりをしていきたいと思っています。

吉田さんは最後に笑顔でこう話してくれました。

福島のみんなの想いを乗せた茶綿は、震災からの年月が経つほどに日本中へとどんどん広がっていくことでしょう。
各地で栽培された茶綿はまたここいわきに戻り、紡がれ、製品になる。
そして福島、東北、日本中へとまた旅立っていく。
こうした循環がもっともっと福島、そして東北を元気にしてくれることでしょう。
そしていつか、震災がきっかけで始めたということを忘れてしまうくらい広がっていくことでしょう。

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